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paionia - 東京 (LIVE)

2018年1月12日(金)
paionia単独ライブ『未熟で無軸なミュージック』新代田FEVER

▼ゲスト
佐藤千亜妃(きのこ帝国)
スズキヨウスケ(しんきろうのまち)

撮影:元

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「rutsubo」セルフライナーノーツ~無関係の街、未完成な僕ら~

4.東京
春先のよく晴れた日のこと、髙橋君と僕は、髙橋君の母校である半田醸芳小学校で開かれた、
卒業式直前のお楽しみ会のような場に招かれて、弾き語りという編成で演奏をした。

何の装飾もない体育館のステージで、ごく普通の学校に置いてあるようなマイクと、
練習用の小さなアンプにマイクを立てただけというシンプルなセッティングで
何曲か演奏をした。
卒業間近の最上級生に向けては、
チャットモンチーのサラバ青春という大好きな曲をコピーして歌ったりした。
そこにはもちろん、後方で腕を組んで見ている、
物知り顔のライブハウスの店長などはおらず、
全校生徒が床に座って僕たちの演奏を聴いてくれていた。
体育館だと、鳴らす声とアコースティックギターの音にリバーブが自然とかかって、
それが心地良かったのをよく覚えている。
のびのびと演奏が出来たことに満足しつつ、
その後懐かしい学校給食をごちそうになった僕らは、
聴いてくれたお礼も含め最後の挨拶をしようと、
6年生が卒業式に向けて歌の練習をしていた3階の音楽室へ向かった。

教卓の前に立たされて、ライブ時のMCさながらの、
しどろもどろな挨拶を髙橋君が何とか終えようとした時に、
壁にかけてある音楽家の肖像画が揺れはじめた。

その直後に、階下で爆発が起きたような衝撃が床を突き上げてきて、
次の瞬間から、まるで大掃除でもしているかのように、
机や椅子と床がぶつかり合って大きな音を立てはじめた。
校舎の最上階ではあるにせよ、今までに感じたことのない大きな揺れは、
収まる気配が全くなかった。

弾き語りの際に司会進行役として同行してくれていた髙橋君の同級生は血相を変えて
「落ち着け!みんな机の下に潜れ!」と指示をした。
すっかり教室中を覆い尽くしていた不安を拭おうとするかのような彼の果敢な大声と、
それをかき消してしまう程のけたたましい物音だけがしばらく続いた。

だが、ここまで書いておいて、改めて告白すると、正直あまり思い出せない。
彼がどんなことを言っていたのか覚えていない。
何となく先のようなことを、必死に口走っていたような気がする。

先生の方を振り返ると、今にもすべり出してしまいそうに、
ぐらぐら揺れているグランドピアノを顔を強ばらせながら抑えていた。
もしかすると、立つこともままならないから、しがみついていたのかも知れない。
どちらだったかはよく分からない。

僕たち二人は、ただ成すすべもなく立ち尽くすだけで精一杯だった。多分。
というのも、これもよく覚えていないのだ。

騒いだり泣き叫ぶ子どもはおらず、急停車した電車内をリピート再生しているような教室で、
暴れている机の下へと必死に身をかがめようとしていた。
でも、その表情は見たことがない、この先見ることもなさそうな、
要するに見ていられないものだったので、やっぱり思い出せない。

校庭に避難すると、数か所に地割れができていて、
学校の脇の道路からは時折重く鈍い音が聞こえてきた。
石でできた倉の屋根や、壁の一部が落っこちていた。

2011年の3月11日に、僕たちは福島にいた。

髙橋君の母親の車に乗せてもらい、作動していない信号機や、
そこここで道路が裂けているのをみとめながら急いで実家に帰る途中、
彼が何かを見つけて突然大きな声をあげた。

その方向には何もなかったのだが、段々と近づくに連れて、
やっと僕もそれに気付き、同時にすごくショックを受けた。
彼の祖父母宅の向かいにある、2階建ての倉が見えなくなっていた。
まるで上から叩きつぶされて地面に這いつくばってしまったかのように、全壊していた。

高校時代のことだ。僕たちはそこで、将来への不安や、
小難しい若き苦悩みたいなものはどこかに置きっぱなしにして、
部活の友達なんかと好きなバンドのCDをかけたり、
大して弾けない楽器を持ち込んで騒いだり、
たまにお酒を飲んで馬鹿みたいな暴れ方をしたりして、遊んでいた。

思い出の場所がこんな形で無くなることを辛く感じるのは、きっとごく普通の神経だろうが、
実家に着いた後、散らかった部屋の中で自分達が座れるほどのスペースを作って、
テレビを点けた途端に飛び込んできた、
太平洋側で起きている光景はどういう神経で見たらいいか分からなかった。
どういう神経で見てたのか思い出せないし、
それから福島に滞在して東京に戻るまでの1週間の日々だってあまり記憶にない。
その間にインターネットで日記を書いて投稿したこともあったが、
どんな気持ちで何を表わしたのかも思い出せない。

震災から1週間経って、僕は東京に戻った。
新宿駅南口のバスターミナルに降りるといつも通りの、
安定したせわしなさで街は動いているようだった。
山手線車内の液晶広告ではこの前と同じように女子大生モデルみたいな人が
居酒屋のこだわりの逸品をレポートしていたし、
僕の向かいの席には恋人同士が互いにもたれ合って、心底幸せそうに佇んでいた。
部屋に帰ると、17歳の誕生日プレゼントとして友達からもらった、
weezerのブルーアルバムが床に落ちていて、ケースにはひびが入っていた。

この街は僕に関係がない。ばく然とそう感じてからは、
僕もこの街とは関係なく生きていこうと思うようになった。

震災を受けて、多くのアーティストがいち早くリアクションをとった。
ある人は命の尊さを訴えて、またある歌手はこういう時にこそ音楽を、
と復興支援の曲を作って発表し、色々な媒体がそれらを取り上げた。

断わっておくと、これは、辛辣な事を言う前の予防線まがい、
あるいは、事後発行の免罪符と思いきや、やはり事実であるが、僕は性格が良くない。
偏見と妄想と敵意で毎日頭がいっぱいである。

正直絆の存在を掲げられてもピンとこなかったし、
音楽を発表する側の立ち位置みたいなものがよく分からず、
そういう楽曲にあまり関心が持てなかった。
何より、渦中では役に立ちそうもないと感じた音楽を、
いつか必要とするかも知れない人を想って用意しておくにとどまるなら良いものを、
自分の希望するものを自分の好きなタイミングで
自由に選べる素晴らしい時代になったというのに、
寄ってたかって押しつけるみたいに提示しているような印象を持ってしまう、
そんな状況に嫌気が差した。
自分に必要なものは、自分で選べると思う。
その時に、選択肢をたくさん作っておくという事が、
ものづくりをする人の役割の一つのような気がする。

この歌詞は、いわば髙橋勇成による3.11以降の手記なのだと思う。
したがって対象などは不明瞭で、誰かに向けられたものではなく、
何かを声高に叫ぶこともしない。
福島に故郷を持つ人間のつづる、ごく個人的な内容が続く。

東京を初めて演奏したその日からずっと、
ライブを見てくれた人からは何らかの大きな反応を、たくさんもらい続けている。
2年ほど経った今になってやっと、
この曲と聴いてくれる人との間で起きていることについて、気づいたことがある。

まず、この曲は、強い光を持っている。だが方向性は持っていない。実は所在も曖昧だ。
聴く人が、自分の胸の中にある言語化できない何かと照らし合わせるように、
この光に向かって歩み寄ってくれているのかも知れない。

第五回終了!

​文:菅野岳大

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